7月25日 宮城県山元町の合戦原遺跡第二回現地説明会に参加してみました。
貴重な線刻横穴墓ということもありますが、あまり現地説明会に参加したことが無いので後学の為ちょっと遠出です。
開通した常磐道をつかうとずいぶん早く到着したので、準備にいらっしゃった学芸員さんに写真撮影/全天球写真撮影/3次元測量等してもかまわないか聞いてみたところ、写真を除き×。現地説明会という忙しいなかでの個別対応は、やはり難しそうですね。
3次元測量はちゃんとした会社さんが入っていることなので、どこまでの範疇で3D化されるか分かりませんが出来上がりに期待しましょう。
横穴墓の見つかっている地域はA区とされていますが、地形に合わせ4つのパノラマ写真を作成しました。昨年調査の西側(さらに東西)、今年調査の東側(南北)に便宜上分けています。
まずは、線刻画の見つかっている区域 A区H27年度調査範囲北側
カラーコーンの並んでいるのが38号墓と墓道を共有している37号墓(右)39号墓(左)
左側の長い墓道が48号墓になります。
固めの地層と砂岩になりきれてない地層の境目くらいに造営されていることが多く、上下に造営されるパターンがほとんどありません。当日は時々雨が降っていましたが、写真の下側を見てもらえば分かるように流れ出した雨水が泥のようになっています。
入室は出来ないので、今回見学した方の写真はほぼ同じ感じだと思います。
事前に画像を見ていたので概ね分かりますが、気になるのは右側中段より下の穴?や平らにしようとした?跡。左側とずいぶん差があり、なんらかの意図があったのではという印象を受けました。
A区H27年度調査範囲南側
正面が51号墓。
地層の濃淡が分かりやすく、二層を又いて造営されていることが分かります。
A区H26年度調査範囲東側
左の墓道を持つ横穴墓が6号。
水平方向の造営。東側に向け地層に沿って下がっていっている状況。
寄棟式の横穴墓は写真右側。
A区H26年度調査範囲西側
写真道端に保管されている石が閉塞石。
お昼からの炎天下の中、400人を越える方が見学されていたようです。集団移転先ということでなかなか保存は難しいと思いますが、遺跡があったという記録はしっかりと残して欲しいものです。
見学者さん(学者さん?)の話などを聞いてて思ったこと。××地域のものと似ているという情報がどうしても人間の記憶に頼ってしまう点。学芸員さんもいろいろな年代の調査がありますから、よほどクリティカルにその時代に注力していなければ、仮に類例があったとしても見逃してしまいます。データが集まっていることが前提となりますが、横穴墓の3Dデータを1時間ほどでとる→データベースと比較し形状などの類例を検索するなどのことができれば技術伝播や年代想定が多少楽になるのかぁなと思います。
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